キロ程手前からはじまる木下街道の出発点は日蓮総本山・中山法華経寺があることからこの地域は「法典が原」と呼ばれていた。法典が原の難所を乗り切るための荷物を運ぶ手伝い人足が必要になり、地元や浦安方面などから人が住むようになっていった。
幕府が日本政府になってからは木下街道に人力鉄道なるものが引かれたりしたが本格的な鉄道路線には至らなかった。
戦前より近郊各所に軍の施設が出来ることによる開発に伴い次第に人が住むようになる。
太平洋戦争の無電「ニイタカヤマノボレ」と「トラトラトラ」の電波を送受した行田の電波棟は良く知られている。
(現在は団地と公園になっています)
戦後、軍事施設は住宅や公共施設などになり、都内への通勤可能な住宅地が出来て行くに連れ、自然と商店街が形になる。
そこで故小野由太郎氏が中心となり、商店会としての組織設立準備が進められ、昭和35年(1960)に北藤商店会が発足致した。
その後、JRA中山競馬場が隣接、競馬場と共に従事者の住居も当然のごとく隣接したことで商店会最大の発展を迎える。
昭和55年を機に、規模が大きくなったJRAが、競馬場本体以外の諸施設を茨城県美浦村へ移設し始めると商店会も徐々に縮小していく。
丁度時を同じくして、JR武蔵野線が(昭和53年)新松戸-西船橋間延伸開業したことにより、町ははっきりと東京のベットタウンに変わり始め「北藤商店会は安泰」かと思われたが、住民が順調に増え続けると同時に世の中が週休二日制となり車を基本とする生活に変わってゆき、日々の買い物を週末に家族揃って郊外の大型店舗で1週間分まとめて買い物をし食事も済ませる、いわゆるアメリカンスタイルに変わって行く。
ターミナル駅からひとつと云う立地に恵まれ急激に人口は増えていったが、その立地が逆に地元で買い物をしなくても良い環境になっているのである。